先日、ボクシングの恩師、宍戸典雄会長が亡くなった。突然の訃報だったので驚いたが、冷静に考えると訃報というのはいつも突然ではある。

小平にあったシシドボクシングジムはお世辞にも綺麗なジムではなかったが、練習後のシャワー室で飲む水道水は世界一美味しかった。
ジム末期にはトレーナーが一人もいなくなってしまい、当時練習生だった僕がトレーナーをやらされた。(半ば強引に)
木内さん(久米川にある久米川木内ボクシングジム会長)がトレーナーとしてやってくるまでの一年ほど経験させてもらったが、それはそれは良い勉強になった。
重要なことはノートに書かされた。脳梗塞を患ったため言葉が聞きとれにくかったが、とても楽しかった。
宍戸会長はいつも勉強していた。ボクシング技術的なものだけでなく、コミュニケーション技術、心理的技術など、それに関する本が机の上に置かれて読まれていた。散らかった机周りだったけど、散らかり方が会長らしくていい。

IMGP0304(撮影:中村) シシドジムのなんとなくの全景 原田くんがチラッと見える

IMGP0306_1(撮影:中村) シシドジムでの最後のスパー大会 顔出しNGな人、お申し出を。。。
IMGP0307左が宍戸会長 右が亡くなった小川くんのおじいちゃん(HSBのリング設営など大変お世話になりました)
IMGP0292(撮影:中村)  輪島会長がとある理由で平野会長と金子会長と一緒に尋ねてきた日。諸々問題あったらご指摘ください。中央後ろに若き日の小川くんが!!小学生のノコちゃんも

宍戸典雄会長のご冥福をお祈りいたします。

シシドジムの回顧録はまた別の機会に書くとして、人間50をすぎてくると訃報も多くなってくる。
その度に自分の性格上頭によぎるのが「死後の世界はあるのか、ないのか」。
科学的には死後の世界はないと考えられると思うのだけど、科学では説明できない部分もあるのではないかな。
宇宙は多重宇宙であり、その物質が実際に存在する。死んだ後、物質が例えば別の宇宙に転換された場合、もうこの宇宙では観測できない。
よって科学ではもう説明できないのである。これが死後の世界があるという考え方か?

死後の世界がないという考え方は、その時がきた瞬間に五感が完全に失われるから「死」を認識できない。
「死」は五感がある今生きている人間にとっては「ある」のだけれど、死んだとたんの人間にとっては「ない」。
睡眠を例えるなら、眠った瞬間というのはどうだろう、眠る瞬間がわかる人はいないだろう。後になって「あーいっぱい寝た」だとか「寝足りない」とか思う。終わった数秒後に「寝た」と認識できるのは生きているからであって、死んだら死を意識することはない。

「死」は通常の生物活動と一緒。寝たり起きたり、あくびしたり水飲んだりご飯食べたりすることと一緒。

ということは死後の世界が「ある」場合と「ない」場合を考えてみても、死自体というものが訪れることはない。
それは現実に自分に訪れるのではないかと思っている生きた人が思うことであり、実際には死を「経験」する事は絶対にできない。
だから死というものを検討する必要がない、考える必要がないのだ。
よって哲学、宗教の主要課題である「死」というものは本来題材にもならないのではないかな。生きている人にとって架空のものだから。

宍戸会長に聞いてみたいよ。今どこにいるのーって。